沈没船が東西貿易の歴史証人
―文献だけではなく歴史の現物に学ぶことも

18世紀に東西貿易の主役は、陶器であった。日本の伊万里や有田で焼かれた陶器が、中国船のジャンク、オランダ船の帆船で、中国沿海、東南アジアを経由して、バタビアの呼ばれたジャカルタに届いていた。
現在、バンコクにある国立博物館では9月13日から「バンコク国立博物館特別展「日本とタイの陶磁器交流‐貿易と文化交流の永遠の伝承」が12月14日まで開催されている。日タイ通商協定締結135年を記念したものと、8月12日がシリキット王妃の誕生日で生誕90歳を祝って、シリキット王妃がタイの地方文化、芸術を振興された一部も紹介されている。
先日の日曜日に博物館をのぞいてみた。入場料は外国人200バーツで、タイ人は30バーツ。
陶磁器を通じて、貿易の実態が見えると言われるが、文書に残る記録もさることながら、タイ国の沿岸部で沈没船が発見された36か所の紹介もある。そこから、引き上げたものには古銭と共に陶磁器が多い。
全体の構成は、入り口には、前のプミポン国王、シリキット王妃の絵付けをしたツボが展示されており、そこから第1ゾーンに入る。最初に、世界と日本、タイの5000年前から現代にいたる文化史が年表で紹介されている。最初に日本への入り口として鳥居の大きな写真があって、九州にある陶磁器の窯を紹介されている。豊臣秀吉による慶長の役、朝鮮出兵で多くの陶工が日本に連れてこられて、彼らが九州にある多くの窯のルーツになっていることが多い。。へといざなってくれる。陶磁器の製造過程を紹介されている。原料から窯で焼くまでの過程を簡潔に紹介されている。
―文献だけではなく歴史の現物に学ぶことも

18世紀に東西貿易の主役は、陶器であった。日本の伊万里や有田で焼かれた陶器が、中国船のジャンク、オランダ船の帆船で、中国沿海、東南アジアを経由して、バタビアの呼ばれたジャカルタに届いていた。
現在、バンコクにある国立博物館では9月13日から「バンコク国立博物館特別展「日本とタイの陶磁器交流‐貿易と文化交流の永遠の伝承」が12月14日まで開催されている。日タイ通商協定締結135年を記念したものと、8月12日がシリキット王妃の誕生日で生誕90歳を祝って、シリキット王妃がタイの地方文化、芸術を振興された一部も紹介されている。
先日の日曜日に博物館をのぞいてみた。入場料は外国人200バーツで、タイ人は30バーツ。
陶磁器を通じて、貿易の実態が見えると言われるが、文書に残る記録もさることながら、タイ国の沿岸部で沈没船が発見された36か所の紹介もある。そこから、引き上げたものには古銭と共に陶磁器が多い。
全体の構成は、入り口には、前のプミポン国王、シリキット王妃の絵付けをしたツボが展示されており、そこから第1ゾーンに入る。最初に、世界と日本、タイの5000年前から現代にいたる文化史が年表で紹介されている。最初に日本への入り口として鳥居の大きな写真があって、九州にある陶磁器の窯を紹介されている。豊臣秀吉による慶長の役、朝鮮出兵で多くの陶工が日本に連れてこられて、彼らが九州にある多くの窯のルーツになっていることが多い。。へといざなってくれる。陶磁器の製造過程を紹介されている。原料から窯で焼くまでの過程を簡潔に紹介されている。
第2ゾーンは、窯の模型が2基置かれて、同時に焼き上げる工程を映像でも紹介されている。
第3ゾーンは、タイの陶器の窯の紹介である。後に、ベンジャロン焼きに進化したものもあるが、
多くは宮廷や庶民が使う食器であり、陶器を使って屋根瓦や塀になったものもある。しかし、多くは中国から渡ってきた食器に淘汰されて、多くの窯はその地域だけで、海外まで輸出されたものは少ない。スンコロクなど、我が国に渡ってきたものもある。
第4ゾーンが、平戸から長崎へ海外向けの貿易港が移転しても、貿易の主体は佐賀県鍋島藩の伊万里、有田焼であった。海外でも絵付けの芸術的、文化的の価値は高い。それまで中国製の陶器があふれた欧州では日本の有田が20世紀の初頭までその市場を席巻したようだ。日本の柿右衛門、金襴手の陶器は派手好みの宮廷ではもてはやされたようだ。1709年にドイツのマイセンで陶器は生産されるまで欧州では陶器はできなかった。伊万里焼、有田焼はオランダのデルフト、ドイツのマイセンなどの陶器にも影響を与えた。絵画の世界でも日本の陶器を主題にしたものもある。博物館では、タイの沿岸部で沈没した船から引き揚げられた陶磁器の実物が多数、展示されてある。

第5ゾーンは、日タイの客間を左右に並列して再生されて、そこに日本料理とタイの宮廷料理の再現されたものが、展示されている。日本は懐石料理の再現で吸い物から刺身や焼き魚など器に盛ってある。タイでは、ラマ2世の記録されたメニューを再現されていた。
TMO 今回の博物館行きには2つの目的があった。一つはタイと日本との交易の歴史を、陶磁器をとして学ぶことである。同時に、当時の貿易はアユタヤ王朝が、日本に送ったジャンク船が長崎についたと絵図があるものの、何が送られたのか、関心があったもの。同時に日本からタイに何が来たのであろうか、と関心があった。また、有史以前の歴史にも関心があったが、博物館は16.00で閉館するため、残る課題は次回にする。
第3ゾーンは、タイの陶器の窯の紹介である。後に、ベンジャロン焼きに進化したものもあるが、
多くは宮廷や庶民が使う食器であり、陶器を使って屋根瓦や塀になったものもある。しかし、多くは中国から渡ってきた食器に淘汰されて、多くの窯はその地域だけで、海外まで輸出されたものは少ない。スンコロクなど、我が国に渡ってきたものもある。
第4ゾーンが、平戸から長崎へ海外向けの貿易港が移転しても、貿易の主体は佐賀県鍋島藩の伊万里、有田焼であった。海外でも絵付けの芸術的、文化的の価値は高い。それまで中国製の陶器があふれた欧州では日本の有田が20世紀の初頭までその市場を席巻したようだ。日本の柿右衛門、金襴手の陶器は派手好みの宮廷ではもてはやされたようだ。1709年にドイツのマイセンで陶器は生産されるまで欧州では陶器はできなかった。伊万里焼、有田焼はオランダのデルフト、ドイツのマイセンなどの陶器にも影響を与えた。絵画の世界でも日本の陶器を主題にしたものもある。博物館では、タイの沿岸部で沈没した船から引き揚げられた陶磁器の実物が多数、展示されてある。

第5ゾーンは、日タイの客間を左右に並列して再生されて、そこに日本料理とタイの宮廷料理の再現されたものが、展示されている。日本は懐石料理の再現で吸い物から刺身や焼き魚など器に盛ってある。タイでは、ラマ2世の記録されたメニューを再現されていた。
TMO 今回の博物館行きには2つの目的があった。一つはタイと日本との交易の歴史を、陶磁器をとして学ぶことである。同時に、当時の貿易はアユタヤ王朝が、日本に送ったジャンク船が長崎についたと絵図があるものの、何が送られたのか、関心があったもの。同時に日本からタイに何が来たのであろうか、と関心があった。また、有史以前の歴史にも関心があったが、博物館は16.00で閉館するため、残る課題は次回にする。
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